<引用元:https://mantan-web.jp/>
今回は日本を代表する国民的大女優である、吉永小百合についての記事です。
吉永小百合と言えば、昭和を代表する大女優であり、現在の日本人では知らない人がいないほどの知名度・認知度を誇る女優です。
まさに、日本人の誰もが好む容姿である清潔感・清楚・お淑やかさをも具現している女優であり、1960年代から1970年代にかけては、「サユリスト」という熱狂的なファンも大勢いたくらいです。
現在の政財界を代表する方達の間でも未だに絶大な人気を誇るのが、この吉永小百合という女優なのです。
そんな大女優である吉永小百合ですが、私生活では結婚しているのにも関わらず、子供がいないことで知られています。
吉永小百合は1973年の28歳の時に、15歳年上の当時フジテレビのプロデューサーであった岡田太郎と電撃結婚します。
当時、まさに超人気女優であった吉永小百合と、離婚歴のあるバツイチで15歳年上の岡田太郎との結婚は世間を驚かせました。
しかし、1973年の結婚から現在に至るまで、吉永小百合は子供をもうけず、一貫して夫婦二人での生活を守っております。
吉永小百合が結婚したのは28歳の時ですから、普通なら子供を作っても決しておかしくはない年齢での結婚ですが、子供を作ることはしませんでした。
噂では、吉永小百合が子供を作らなかった原因は、自身の生い立ちと両親との関係にあると言われています。
今回の記事では、吉永小百合に子供がいない理由である生い立ちと両親との関係に迫っていきたいと思います。
「吉永小百合に子供がいない理由は生い立ちと両親との確執にあるとの噂、その真相とは?」と題しまして、噂の真相を解明していきたいと思います。
目次
吉永小百合の生い立ちとは?
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吉永小百合は1945年(昭和20年)3月13日に東京都渋谷区で生まれます。
1945年3月13日と言えば、東京大空襲のわずか3日後ということもあり、東京が混沌とした中で吉永小百合は生を受けたということです。
父親は吉永芳之といい、東京大学法学部卒業で、九州耐火煉瓦と外務省嘱託を経て、その後に映画雑誌を刊行する出版社である「シネ・ロマンス社」を経営することになります。
東京大学法学部出身、外務省出身ということもあり、当時でもいわゆる超エリートと言われる方でした。
母親は吉永和枝(旧姓:川田)といい、大阪出身の女性であり、父親が英文出版社「大観社」の社長であり、当時でも非常に上流階級の家庭で育てられた女性だったそうです。
吉永小百合はそんな父母の3人姉妹の次女として生まれ、5歳年上に姉がおり、2歳年下に妹がいるそうです。
姉は東京教育大学(現:筑波大学)出身で東京都庁に勤めていたそうで、妹も有名大学を経て大学教員として働いていたそうです。
吉永小百合も東京都立駒場高校出身で、早稲田大学第二文学部を女優の仕事との両立の中で、次席(2番目の成績)卒業ということですから、吉永小百合の生い立ちとしては父親は東京大学法学部卒業、母親は関西の上流階級出身、3人姉妹は全員が大学卒業ということもあり、非常に優秀な家系の出身ということになります。
父親の事業失敗から家庭環境が急変
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吉永小百合は父母ともに優秀な上流家庭に育ち、戦後ながらも非常に裕福な生活を送っていたそうですが、父親の事業の失敗から家庭環境が急変したそうです。
吉永小百合の父親が経営していた出版社「シネ・ロマンス社」の事業失敗により、それに加えて父親が肺結核になってしまいます。
それまでは裕福な家庭で何不自由なく生活をしていた吉永小百合ですが、小学生の頃は家には借金取りが来たり、食べるお米もなく、母親がやっていたピアノ教師と歌を詠んで当時の朝日新聞に投稿しての収入でまさにギリギリの生活を送っていたそうです。(当時は歌を読み新聞に採用されれば、原稿料として約1500円、現在の貨幣価値に換算すると約3万円もの賞金がもらえたそうです。)
そんな困窮した生活の中で、吉永小百合も新聞配達の仕事をやろうと決心しましたが、小学生の女の子に新聞配達はさせられないと、両親は反対して引き留めたんだそうです。
そんな中で、吉永小百合はある医療少年院での学芸会でうさぎ役を演じた時に、自分のお芝居に感動して涙を流してくれた少年達を見て感激し、演劇の持つ力に興味を抱き始めます。
そして、小学6年生の時に人気漫画である「赤胴鈴之助」のラジオドラマでのオーディションがあることを知り、一般公募をしたところ見事に合格します。
ヒロインである千葉さゆり役をオーディションで勝ち取り、ラジオドラマに出演することになります。
ラジオドラマ「赤胴鈴之助」への出演で、その収入が困窮していた家庭への助けになるのではないかと思い、真剣にラジオドラマの仕事をしたんだそうです。
女優・吉永小百合の誕生
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ラジオドラマ「赤胴鈴之助」への出演は、本来の主人公である赤胴鈴之助役の俳優よりも、ヒロイン役である吉永小百合の方が大人気になり、吉永小百合目当てでラジオドラマを聴く人まで出てきてしまいます。
そして、「赤胴鈴之助」の放送終了後には、同じスポンサーであったラジオドラマ「まぼろし探偵」にも出演することになります。
演じることへの興味をさらに膨らませた吉永小百合は、14歳の時、1959年の「朝を呼ぶ口笛」で映画デビューを果たします。
映画デビュー後はその清潔感のある清楚な可愛らしい容姿のあり、瞬く間に大人気となり、映画に立て続けに出演することになります。
映画に立て続けに出演できたのも、当時の吉永小百合にとってみれば家計の助けになりたいという思いもあり、その思いと世間で瞬く間に人気が出たことが合わさり、相乗効果が生まれたことが原因になっているようです。
吉永小百合はついには所属する日活を代表する女優にまで成長し、まさに女優・吉永小百合の誕生ということになりました。
両親との確執の始まり
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吉永小百合は映画デビューと共に瞬く間に大人気となり、女優としてのスター街道を歩み続けることになります。
しかし、家計を助けるために始めた女優としての仕事が成功すればするほど、両親との間には確執が生まれていったそうです。
事業の失敗をした吉永小百合の父親はついには吉永小百合の事務所の経営者となり、母親は吉永小百合のマネージャー的な存在になります。
若干10代にして一家の収入面での大黒柱になってしまった吉永小百合を公私に渡って両親がサポートすることになりますが、これが日が経つにつれ、確執へと姿を変えていくことになります。
父親も母親も、吉永小百合の仕事に対してあれこれと指図をすることが増え、私生活にまで両親からの注文が入るようになります。
当時の吉永小百合は自分のことを「鳥かごの中の鳥」とまで表現しているように、映画女優としての成功とは裏腹に、非常に不自由な生活を強いられていたそうです。
女優業は母親と二人三脚で進めていった。親友の後藤圭子さんが、母の指導方法を目の当たりにし、その大変さを語った。
吉永は年10本以上も撮影する多忙な女優となり、サユリストというファンもできていった。
スポンサーリンクこの頃から、母親と吉永の意識のズレが目立ち始めた。日記には赤裸々に心情を綴っている。「いい子過ぎたんでしょうね。親が望む方向に乗っかるようにして、我慢して仕方がないのかなと諦めて」と本人。
<引用元:https://ameblo.jp/>
これも当時の吉永小百合の心情を表している文章ですね。
渡哲也との引き裂かれてしまった恋が両親との確執の決定打に
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吉永小百合の私生活にまで口を挟むようになった両親は、当時恋愛関係にあった渡哲也との関係にまで口を挟むようになったそうです。
吉永小百合と渡哲也は1966年の「愛と死の記録」という映画で初共演を果たし、これがきっかけで交際するようになったそうです。
ついには2年ほどの交際期間を経て、二人は結婚を意識するようになりますが、これも吉永小百合は両親からの猛反対に合い、破局にまで発展してしまったということです。
吉永小百合さんは映画「愛と死の記録」で渡哲也さんと初共演して彼氏彼女の関係に。業界では知られた仲で、渡哲也さんは仲間内では「うちのカミさん」と公言するほどで、しかも吉永小百合さんにとって初めての相手でした。
しかし両親は、モテ男と結婚したら苦労するという理由で結婚に反対。渡哲也さんが酔って「何で俺のところに飛び込んできてくれないんだ」と電話してきたこともありましたが、両親を説得できなかった吉永小百合さんは「あなたとは結婚できません」と伝え、交際2年で破局。
その後、渡哲也さんが1971年に一般女性と結婚すると吉永小百合さんは後悔の念で号泣。以降、両親と不仲になります。
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この渡哲也との破局は吉永小百合にとっては両親との確執の決定打になったと言われています。
猛反対の中での岡田太郎との結婚
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結婚寸前だった渡哲也との恋愛関係は両親からの猛反対で破局してしまい、渡哲也はその後一般女性と結婚してしまいます。
女優としての仕事は今までのように両親の言うがままの状態、そして私生活までも不自由の状態ということもあり、当時の吉永小百合の精神的なストレスはまさに頂点にまで行ってしまっていたそうです。
今すぐにでも仕事を休みたいという気持ちであった吉永小百合ですが、事務所にいる20人ものスタッフのことを考えると、休みたいなどと言える状況では無かったそうです。
しまいにはストレスの極限状態で女優としての生命線である「声」が出なくなります。
身体の異変を感じた吉永小百合は仕事の降板を真剣に考えざるを得なかったそうです。
そんな状況の中で吉永小百合の相談に乗ってくれていたのが、フジテレビのプロデューサーであった岡田太郎だったということです。
そして吉永小百合はそんな岡田太郎に好意を抱くようになり、二人は交際関係に。
ついには吉永小百合と岡田太郎は結婚することになります。
吉永小百合が28歳の時のことです。
岡田太郎との結婚も両親は猛反対
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もちろん、吉永小百合と岡田太郎の結婚を吉永小百合の両親が許すはずがありません。
岡田太郎との結婚も両親は猛反対します。
しかし、吉永小百合は両親の猛反対の中でも半ば強行する形で岡田太郎と結婚してしまいます。
二人は密かに結婚式を行いますが、その結婚式にも吉永小百合の両親は欠席。
この結婚を機に、吉永小百合は両親の事務所をも離れ、移籍をすることとなります。
まさに、この吉永小百合と岡田太郎の結婚は親元から完全に離れて自由になるという、吉永小百合の決意の表れだったと言っても良いと思います。
吉永小百合に子供がいない理由は生い立ちと両親との確執にあるとの噂
<引用元:https://www.cinematoday.jp/>
ここまでは吉永小百合の生い立ちと両親との確執について述べてきました。
吉永小百合は1973年に岡田太郎と結婚しますが、子供はもうけていません。
吉永小百合に子供がいない理由は自分の生い立ちと両親との確執にあると噂されています。
この両親との確執以外には、吉永小百合が子供を作らない原因は女優業に専念するためであり、女優業と子育ての両立は難しいと思ったからだという噂もあります。
吉永小百合には子供がいない。
2007年NHKで放送された『吉永小百合 知らざれる母への思い』では、女優の仕事と子育ては両立が困難であることを理由に、あえて子供は作らなかったと述べており、今ではそれが定説となっている。
このように、TV番組でも確かにそう語っています。
しかし、吉永小百合が子供を作らなかったのは、私が思うには両親との確執が大きな原因になっているのは間違いないと思ってなりません。
吉永小百合は子供を作らないことに対し、こうも語っています。
「ほら、わたし両親と関係がよくないでしょ? だから、わたしもその血を引いていると思うと、子供は作らないことにしたんです」
こっちの方がより吉永小百合の心の内を言っている言葉だと思うのは私だけでしょうか。。
吉永小百合が子供を作らなかったのは、自分と両親との関係を、自分と子供の間で再現するのではないか、そういう血が流れているのではないか、それを懸念している、この言葉こそ、彼女の本心ではないかと思う。
昭和48年、吉永小百合は15歳年上のバツイチ男性と結婚した。
元より折り合いが悪かった両親は大反対の上、結婚式にも出席しなかった。
その後35年以上、実家を訪れる事もなかったという。そ
して吉永小百合と両親の不仲は周知の事実であって、秘密でも何でもない。
だからこそ、先のインタビューで「ほら、わたし両親と関係がよくないでしょ?」と、みなさんご存知の通り、と冒頭で言っているのである。
また、吉永小百合は自身の著書でもこう言っています。
小百合は著書『私が愛したたち』の中で、「両親のことはまだ自分の中で総括できていない」と語り、母親についても、「私は、母親と非常に特殊な親子関係だったと感じていたので、自分が子どもを持ったときにどういう母親になるかが、ちょっと怖かった」といっている。
<引用元:https://president.jp/>
やはり、両親との確執が子供を作らなかった原因だと思わざるを得ません。
吉永小百合に子どもがいない理由は生い立ちと両親との確執が原因だという噂は本当だと思います。
まとめ
今回は「吉永小百合に子供がいない理由は生い立ちと両親との確執にあるとの噂、その真相とは?」と題しまして、噂の真相を解明していきましたが、これは噂通りだと言っていいと思います。
日本を代表する大女優である吉永小百合だって、私生活では想像を絶する苦しみや苦労があり、並々ならぬ覚悟があるからこそ今の地位を確立してきたということだと思います。
芸能界のスターというのは、一般人からすると光り輝いて見えるかもしれません。
しかし、その裏には光り輝いて見えるのと同じくらいの闇を抱えているということなのだと思います。
光と闇、これは切り離すことは出来ず、二つで一つであり、セットなのだと思います。
これは吉永小百合にしても当てはまるということなのだと思います。
ありがとうございました。